ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ 雑記
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ 2019年版の感想です。ネタバレありです。
はじめに
感想を語るにあたっての前提をいくつか述べておく。
ヘドウィグとは
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ(原題:Hedwig and the angry inch。邦題ってなぜいつも冠詞や三人称単数形を取っちゃうんだろう。不服である。)をご存じだろうか? 「ヘドウィグ」というとハリーポッターを思い浮かべる人も多いかもしれないが、演劇好きの私にとってはこれ一択である。1997年にオフブロードウェイで上演されて大ヒット・ロングランを記録したロックミュージカルだ。2001年には映画化もされており、その過激な内容と独特な語り口で今でも世界中に根強いファンがいる。日本でも過去に何度か様々な俳優を据えて上演されてきたが、2019年、その日本語版最新公演が行われたので観に行ってきた。
あらすじ
愛と自由を手に入れるため性転換手術を受けたものの、手術の失敗によって股間に「アングリーインチ(怒りの1インチ)」が残ってしまったロックシンガー、ヘドウィグ。幾多の出会いと別れを経験し、傷つき倒れそうになりながらも己の存在理由を問い続け、「愛」を叫び求める姿を描く。
出典:ヘドウィグ2019公式サイト https://www.hedwig2019.jp/introduction.html
「『愛』を叫び求める姿」とあるがこれはヘドウィグが幼いころ母親に聞かされた「愛の起源」の話に起因する。劇中のバラードナンバー「Origin of love」で語られるその内容はざっくりいうと以下のような感じだ。
人間はもともと2つの顔と2組の手足を持った生き物だったが、神様によって引き裂かれ今の人間の姿になった。だから人間はその引き裂かれたカタワレ(愛)を探し続けている。
つまりヘドウィグは人間は一人では不完全で、そのカタワレを見つけることで完全になれる(本来の姿に戻れる)と信じている。そのカタワレ探しの過程で男性器を切除する手術を受けて失敗したり、カタワレかもしれないと信じて愛した人が去ってしまったり、またヘドウィグの歓びであり生きる術でもある音楽にすら裏切られたりする。そうしてもがいた先に見えたものは……というお話。
ヘドウィグと私
わたしが初めてヘドウィグをみたのは、2012年、大根仁演出版だった。ヘドウィグ役に俳優の森山未來、イツァーク役にミュージシャンの後藤まりこを迎えての公演だった。訳詞はミュージシャンのスガシカオが担当していた。
この時の衝撃は今でも忘れられない。初めて見るロックミュージカル、突飛な設定、強い音楽、訳詞の完成度の高さ、ヘドウィグの悲哀と歓び、すべてが私の胸を打った。これは後々知ったことだが、この時のヘドウィグは演出もストーリーも原作にかなり手を加えられていた。そうに至る詳しい経緯は不明だが、その大きな要因の一つがは2011年3月11日の東日本大震災にあることは間違いない。
原作では第2次世界大戦後にベルリンの壁で分断されたドイツで物語が始まり、ヘドウィグは東側から壁の向こうの自由にあこがれ続け、そこから出る手段として手術を受ける。大根版では壁の内側(原作でいう東側)を原発事故で立ち入り禁止となった区域に置き換えていた。かなり挑戦的である。
2度目に見たのは2016年秋、ロサンゼルスでのことだった。私の思い入れの深いドラマgleeに出演していた俳優・Darren Crissをヘドウィグ役に迎えての全米ツアーだった。これが私にとって初めて見たオリジナルに忠実なヘドウィグだった。大根版を見たときは高校生だったこともあり、ストーリーをうまく噛み砕くことができなかったが、この時は映画を見てあらすじを頭に入れ、曲も事前に聞いて予習してから行ったので、物語としてのヘドウィグをようやく理解できた。その上で、この舞台の持つ魅力を改めて知った。Darren目当てで見に行ったが、イツァークを演じたLena Hallに完全に心を奪われた。Lenaは2014年のNYリバイバル上演で、同役でトニー賞助演女優賞を受賞している。
3度目は2017年、日本でのスペシャルショーだった。原作者であり初代ヘドウィグのJohn Cameron Mitchelの来日公演。でもこれはミュージカルというよりコンサートに近い形式だった。イツァークは俳優の中村中が演じ、楽曲パート以外は彼女がヘドウィグの気持ちを代弁するような形で全編日本語だった。
私は好きなものは何回でも観てしまう質なので、ヘドウィグもその例に漏れず複数回観てきた。毎度感じることは違うし、毎度種類のちがう感動がある。それでもあえて言いたい。今回見たヘドウィグが、私の中でダントツの1番だった。
ヘドウィグ2019 概要
スタッフ
翻訳・演出:福山桜子
歌詞:及川眠子
音楽監督:大塚茜
+他
キャスト
ヘドウィグ:浦井健治
イツァーク:アヴちゃん
+バンド
主演を務める浦井健治はミュージカル界の貴公子的なポジションにいる。山崎育三郎、井上芳雄とともにStarSというユニットを組んでおり、最近は歌番組などにも出演している。ちなみに私はこれ以前に浦井健治の舞台を観たことはなかった。Huluでの配信番組『ニーチェ先生』で主人公の松駒を演じており、そちらは2年位前に全話観た。
イツァークを演じたのは女王蜂というバンドのVo.を務めるアヴちゃん。わたしはこのアヴちゃんがとても好きで、この配役が発表されたとき「なんてピッタリなキャスティングなの!」と大歓喜した。アヴちゃんがどんな人物であるかを語るのは野暮な気がするので、彼/彼女を知らない人は黙って歌ってる姿でも見ておけよな。
感想
正直言って、私はこのヘドウィグにあまり期待をしていなかった。日本語と英語では発音の仕組みが丸っきり違い、歌なんてその違いが特に顕著に現れるので、ミュージカルの日本語版というのものに、個人的にはあまり期待ができないのだ。おまけにヘドウィグはロックミュージカル。初めてみた大根版の時は訳詞をスガシカオが担当したことで全く違和感がなく大成功していたということもあり、あれを超えるヘドウィグの日本語版はないだろうと思っていた。
kokua - 1st Album 「Progress」スペシャルトレーラー
スガシカオは訳詞に長けている。例としてSimply redのStarsの訳詞が分かりやすいかも。
オリジナルのStars。車かなんかのCMに使われてなかったっけ?
それでも観に行ったのはやっぱりアヴちゃんのイツァークを見たかったから。そしてこれも今だから言えるけど、浦井健治にもほとんど期待していなかった。StarSとしてテレビに映る姿を見る限り、正統派のミュージカルスターという印象で、こんな小綺麗な人が人間臭くてボロボロで、だけどお茶目で憎めないという多面的な魅力と欠点を持ったヘドウィグを演じられるのか? と身構えていた。
そしてそれが良い意味で見事に裏切られた。浦井健治、本当にすごかった。文字にしてしまうとこの興奮が伝わりきらないし、すごかった点を挙げても「ミュージカル俳優として当たり前じゃん」と言われてしまうかもしれない。でも自分の感動を忘れたくないから、すごかったポイントを記録しておく。
まず1つ目は声の通りの良さ。ヘドウィグはバンド形式の演劇だ。歌手のライヴでバンドの音が大きすぎてVo.の声があまり聞こえないということがある。でも浦井健治の声量はすごかった。轟音で演奏されるバンドの音の真ん中を突っ切る、強い一筋の光みたいだった。闇雲に大声を出しているわけでもなく、聞いてて心地よかった。アヴちゃんももちろん魅力的だったのだけど、あの2時間は、完全に浦井ヘドウィグの歌声に心を奪われた。全曲音源化してほしいけど過去の日本語版は一つも実現してないしブロードウェイ版もオリジナルキャストのCDしかないし期待できないだろうな。浦井さんがいつかカバーアルバムとか出したときに1曲くらい収録されていることを祈る……とにかくもう本当に何回も聞きたくなる歌声だった。
2つ目は演技力。ヘドウィグは演じるのにすごく難解な役だと思う。性転換手術を受けたけどそれはヘドウィグが性別に悩んだ結果ではないし、ストレート、ゲイ、レズビアンのどれにもカテゴライズできない。ヘドウィグの口から自分の性指向や性自認について明確には語られていないからだ(個人的には本来人間はだれしも明確に性別をカテゴライズできるわけではないと考えているので、そういう意味ではヘドウィグはすごく普通の存在なのかもしれない)。性別以外の面でも、ヘドウィグは愛したかもしれない人に傷つけられたり、それなのに自分を好きでそばにいてくれるイツァークにはかなり横暴に振舞ったりしていて、「ヘドウィグはこういう人間です」みたいなことが簡潔に言えない。ともすればワガママで情緒不安定なヘドウィグを、舞台上で2時間ずっとお客さんに魅力的な人間として魅せ続けるのは絶対に難しい。だけど私のそんな勝手な懸念を蹴っ飛ばして、浦井健治は登場した瞬間からずっとヘドウィグとしてそこにいた。その歌声とその語り口(この作品はほぼ全編楽曲+ヘドウィグの一人語りのみで構成されている)とその表情で、ヘドウィグのお茶目さとダメなところと、不条理に振り回された人生の悲哀と歓び、そのすべてを観客に理解させた。そしてすごいのは2時間ずっとヘドウィグそのもので居続けたにも関わらず、 Wicked Little Town (Reprise)でトミー・ノーシス(ヘドウィグの元恋人。最後に彼はヘドウィグに歌いかける。通常ヘドウィグ役と同じ人物がトミー役も担う。)として登場したときは、トミー・ノーシスにしか見えなかったことだ。なんかもうこの曲~ラストのmidnight radioまでずっと目が釘付けで涙が止まらなかった。本当にすごかったのだ。midnight radio歌っているときの唇の震えでヘドウィグが「カタワレなんていない、自分は一人で完全なんだ」と天変地異の気づきをし、孤独だけど強く歩んでいく決意が伝わった。もう、もう、浦井健治、松駒演じてた時と全然ちゃうやんけ~~~~!!涙
おわりに
終演後にパンフレットを読むと、浦井健治のインタビューにこんなことが書かれてあった。
「僕にとってヘドウィグが異質なのではない。ヘドウィグにとって僕が異質なんだ。」
理由は上手いこと言えないがこれ言えるのすごいなと思う。なんというか、役との和解の仕方にこんな考え方もあるんだなって思った。アプローチの仕方が、自分がヘドウィグとして観客にどう見えるかではなく、すでに根付いたヘドウィグ像に自分がどう馴染むかを考えているような気がする。そこに役者として自分をどう印象付けようとか、目立とうとか、そういう自意識みたいなものがあまりない。あ~~~も~~~~~~~文字にしていたら浦井さんのことどんどん好きになってきちゃったヨォ~~~~~~~東京凱旋公演見に行っちゃおうかな……リピーター割引あるし……。
改めてわたしはこのヘドウィグという作品が好きだし、この作品にずっと救われてきたなと思う。時代がどれだけ変わってきても、一人で生き続けていくことを頭のてっぺんからつま先まで肯定してくれる価値観の人ってなかなかいないから。「結婚しなくてもいずれ良いパートナーが見つかるといいね」みたいな言葉をかけられるたびになぜだか息苦しくなってしまう私にとって「カタワレなんていない。わたしはわたしで完全なのだ」と気づいて一人で歩んでいったヘドウィグの姿はいつだって希望なんだ。一人でだって愛も希望もある。
※一部内容・誤字の修正をしました。2023/1/25