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10才の眼差し/『わたしたち』感想

ランドセルを背負ってつつじの蜜を吸いながら笑いこけた帰り道。


映画『わたしたち』を観たとき、小学生だったころ自分が見ていた風景が五感ごとありありと蘇った。10才にとっての風景とはつまり世界だ。それがすべて。全世界。徹底された10才の視座により蘇る、こどもだけの痛みと愚かさ、もどかしさと、よろこび。

 

ソンとジアは互いが無二の友人とわかりながら、約束と意地悪と保身と裏切り、そして呆気ない仲直りのサイクルに身を預けてしまう。決定的な亀裂が入って、けれど最後にソンは気がつく。「じゃあ、いつあそぶの?」。そしてふたりの視線は再び交差する。

 

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ある友人を思い出した。

10才、転校した先でわたしはまさにこのサイクルの只中にいた。ソンにもジアにも、またときにはボラの取り巻きにもなった。けれど12才で出会う。この子といたら、日が暮れないでほしいよねって思うような、ふたりでいると未来って無限にあるんだねって疑わない、そんな友人に出会う。出会うけど、わたしもあの子もなぜだかやっぱり意地悪をし合い嘘をつき裏切りをする輪の中にいた。

 

何があったのかは忘れてしまった。でも、わたしとあの子の視線はいつのまにか再び交差していた。通学路にあるマンションの花壇に植えられたつつじをこっそり千切って、吸った蜜はいつも草っぽくて同時に甘かった。卒業アルバムにお互いの将来の夢を落書きし合った。あの子は新聞記者に、わたしはダンサーになると。


すべては遠い記憶のなか。

 


たいせつな友人と呼べるひとたちが人生の各時代で現れる。『わたしたち』でわたしが思い起こすのは、12才のときの親友だ。小学校の先生と、しがない会社員になったわたしたちは、今でもともだち。もうつつじの蜜は吸わないけれど。

 


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